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日記 クソ映画会 2017-03-15

11時起床。胃にカフェオレを入れて渋谷に向かう。クソ映画上映会のためTSUTAYAでメタルマンを探すが取り扱いなし。デビルマンデビルマン解体新書(公開前PR用の無料レンタルDVD)、ドラゴンボール・エボリューション、ドラゴンバトル・エボリューション(ドラゴンボールの隣にあった)、ゴジラ2000 の5つをレンタル。下北沢でビッグマックを立ち食い。それでも待ち合わせに時間があったのでアドアーズで液晶画面を叩いた。


カラオケボックスでDVD再生機を借りて映画の上映会をした。とても楽しかったし、何かが得られた気がした。

1. クソ映画って

単に興行的に振るわなかったというだけでは、映画はクソ映画になることができない。出演俳優のキャリアも、VFXのクオリティも、映画をクソ映画にすることに貢献してくれない訳ではないけれど、別に決定的な要素ではない。配給、配役、監督、VFXチーム…………それらとは独立に、映画はクソ映画になる(逆に、ビジュアル面のアレさがある程度のクソ映画度を保証してくれるという場合はあるかもしれない)。クソ映画をクソ映画たらしめる最も支配的な要素はたぶん脚本である。

2. 脚本って

では映画において脚本とは何か、ということを考えてみる。映画に映像と音楽以外何があるかというと、いきさつがある。話を簡単にするために、映画から映像と音楽を抜いたら残るのは台詞などを記した台本のようなもので、それが脚本ということにしてみる。

2.a いきさつって

脚本はいきさつを説明する。いきさつをコンピューターグラフィックスのアナロジーで考えてみる。

どういう空間にどういうオブジェクトがあって、どういうパラメータがあってどういう関数があって、1フレームごとにどれにどれが代入されて、オブジェクトのどれとどれがグループナイズされているだとか親子関係だとかいったことがあって、それが「舞台」「登場人物」「人間関係」といったものから成る「いきさつ」だ。パラメータに適当な初期値を振ってやれば一通りにレンダリング結果が決まるようになっている…………という様子を近似して、かなりの割合で手作業で個々に動かす(ですよね?)。

しかし脚本は、空間をある視点から描画したものであって、その空間自体の生データじゃない。実のところ脚本家自身にも空間の全貌を(つまり生データを)そのまま直観的に把握することはできないはずだ。編集ソフトのプレビュー画面で視点をグリグリ操作して、空間をいろんな視点から眺めたところで、それは「ある視点から描画する」の非連続的なツギハギでしかない。観る側が対応できない生データを提供する試みなんか、あったとしても映画の形式を取らないということは言える。ただし、「空間の一面的な描画」ではあるが映画よりも「空間そのもの」により近づけるような形式、ないし試みならば色々ある。たとえばオープンワールドRPGだったり、演劇だったり、3D上映だったり(←まさに視点が一個増えるのでこれがいちばん適切な例かな)するはずだ。

2.b いきさつを表現することって

個々の出来事が相互に関連しながら時間とともに立体的に展開していくいきさつを、ひとつの平面に落とし込むことだと思う。写真のアナロジーで考えてみる。

部屋があって(別に街でも森でもなんでもいいのだけど……)、男がいたりして、いくつかの静物が存在して、その空間を写真に収めようとする。いい角度を探して部屋を歩き回る。何が画面に収まって何が収まらないのかを決めなくちゃいけない。角度を決めたところで、変えるべきパラメータはまだたくさん残っていて、男に鋭く焦点を合わせて背景を思いきりぼかしてみてもいいし、画角を変えられるならそれも適切に設定してみたらいい。究極的には、シャッターを押しさえすればとにかく写真はできる。しかし「どうすれば写真ができるか」の外側に暗黙のルールがあって、出来上がった写真を見た人間が、「この写真を説明してください」という問いについて、ある程度同じの答えを出せなくてはいけない。露光とかノイズとかフリンジとかそういった技術的なことは抜きにして、部屋の壁しか写ってないだとか、男の体の陰に静物の大半が隠れているとかではダメなのだ。必要なものを全部並べて写せ、ということではなく、画面外にこういうものも存在しているはずだ、みたいなことを推論させてもいい。何が写されているかについてのルールをクリアしたところに、やっと「ここが印象的だよね」だとか、うまい/へた とかいった技巧の話が来る。

3. クソ映画の脚本って

うまい/へた の話を始めると思われたかもしれない。クソ映画の脚本なんだが、何がクソ映画で何がクソ映画でないという基準は好きずきでしかないとしても、この「何が写っているかが誰にもわかる」というルールをブチ破るやつがたまにある。この日のクソ映画上映会で上映したものは概ねこれなので、雰囲気程度に説明してみる。努めて脚本にのみ言及する、ということを強調しておく。観て……。


クソ映画上映会1本目(ウォーミングアップ)、『デビルマン 解体新書』。本編15分。集まった人間の半分が既にデビルマンを視聴しており、冨永愛の顔が映るだけで湧く。他には故・那須監督の目つきが尋常でないと話題に。デビルマンの脚本を説明してみる。

腐っても原作付きなので致命的な破綻はない(ほんまにか?)。おそらく丁寧に描画されているであろう原作の、映画尺に対して膨大すぎるシナリオをシュレッダーにかけ、数片ずつ飛ばしてまた繋いだクソコラをコピー機にかけたように見える何か。あるいはフィギュアを50体くらい横に並べて、そのままじゃ写真に収まらないのでほぼ真横から撮り「斬新な構図にチャレンジ😈🔥😇」とでも書きながら大量のタグをつけてインスタに上げている感じ。しかもそれが、画像のどこにも焦点があっていなかったりする。あるいは解像度がツイッターのアイコンくらいしかない。原作未読でも漫画のツギハギを漫画のツギハギと認識することはできるし、横並びのフィギュアは横並びのフィギュアと認識できるんだけど、できるんだけど……。

クソコラにしても何にしても全貌が見えない。戦闘シーンということはわかる、何かを問いかけていることもわかる。しかしひとつながりのテキストの中で役割を果たしていたはずの何かが、細切れに裁断された隙間の向こう側に行ってしまって、何も答えてくれない。しかも、劣化コピーの余白に「💥せかいせんそうはじまる!💥」とか「😈←サタン⚡️」とか書いてある。ちなみに、何かについて「これはいつ終わるんだ」と思ってしまうこと自体に人間はストレスを感じるらしい。

3.b ドラゴンボール・エボリューション

クソ映画上映会、2本目。上映時間は体感2時間。観てて疲れないので最低限脚本の体裁は取っていた気がする。笑いすぎて覚えていない。何かの間違いで近い日にもう一度丁寧に鑑賞する機会があれば加筆するかもしれない。

覚えていることがあるとすれば、キャラクターを都合よく動かしたいということと、原作を最低レベルにでも再現しなければいけないということとのジレンマがあり、そのしわ寄せが比較的キャラ崩壊を許容してもらえる(と踏んだ、のかな……)主人公・孫悟空サイコパス然とさせている節がある、ということくらいしかない。

ほら、アニメ風イラストを立体化したフィギュアがしっかりアニメ風に見えるのはイラスト通りの限られた視点だけじゃん。残りの視点からはハチャメチャポーズだったりするじゃん。それを体だけトレスして「写真のトレスなんだからリアルな絵のはず!」って主張してみるじゃん。申し訳程度に如意棒を添えてみるじゃん。ほんでその元のフィギュアもコトブキヤで700円くらいの箱なし中古のプライズ品が夏の高温で溶けて変形しちゃってるやつなんだよ。原作をふんわりとでも知っている人間だけが、いくつかの記号と照らし合わせることによりなんとか特定のアニメキャラの絵だとわかる、そんな感じ。

3.c ゴジラ2000

クソ映画上映会、3本目。
個人的には因縁のある一本。集団で鑑賞すると劇的に楽ではあったが、1人で観ると上映時間は体感で4時間くらいある。

絵にたとえてみる。よく出来た脚本が構図の優れた絵だとする。それは引きで見たときにシンプルな絵として成立し、何をまず見るべきか、つまり作品最大のテーマのようなものをきちんと提示してくれる。その次に抽象度をひとつ落とした層が来る。問題の発生と解決から主人公の一挙手一投足に至るまで、異なる抽象度から物語を見ることができ、それらがひとつの画面に破綻なく同居している。あるいは構図でなくても、一見絵というよりも服の模様のようにイラストカットを並べたものに見せておいて、よく見ると色彩が統制されて全体でひとつの構造を表現している、ということもあるかもしれない。

ゴジラ2000はそれをやろうとしたが、膨らませていった発想の走り書きを多層の構造にまとめる技術、あるいは時間、あるいは金に恵まれなかった。横に並べて、具体的なところを詰めず、繋ぎ目を曖昧にごまかし(繋ぎ目をごまかす気があるだけデビルマンよりは良心的だったのかもしれない)、これで十分に伝わるだろうか?といったことを置き去りにして、仕上げられずにラフのまま完成にしてしまった、といったところだと思う。原作の存在の有無を考慮しなければここまではデビルマンと同様の感触だが、ゴジラ2000の脚本が特異なのはとにかく筋が通らないという点だ。普通の脚本の話の筋が1本か数本の線だとすると、デビルマンの脚本は虫食いだらけの破線である。ゴジラ2000の話の筋はない。あるのは始点と終点と、その間にある清書をせずに放置された、線のラフの跡が数本だけである。

4.おわりに

日記を書いて3時間経った。音響もそうだが騒げるという観点から、カラオケボックスで映画を上映するというのは実にアリだと、ゴジラ2000は初見の人が「何なんだよ!!!!!!」と憚らず絶叫して錯乱しているのを見て思った。